SSブログ

文学が読めない話 [日常]

※昔書いた記念企画用のエッセイを現在の視点で加筆修正したらこれが出来ました。


娘が中学受験用の勉強を始めたことで、家で娘の勉強を見る機会が増えました。
算数に関しては非常に勘が良く、問題へのアプローチの仕方などが私自身にすごく似ていると感じるところもあり、これが遺伝か、と思うことが多々あります。
台形の面積の公式が好きなところも似ています。
社会や理科などの暗記系科目も割と得意です。

ただ、問題は国語。
漢字は問題ないのですが、とにかく読解問題が苦手。
学校のテストだと授業でやった文章がテストに出てくるので成績自体悪くないのですが、受験用の初見の文章を読み解け、となるとかなり難しいみたいで詰まることも多いです。
それで解答を見ながら親として解説したりするわけですが、解説を読めばわかるけど問題読んだだけだとちょっとわからないかも、と私自身も思ったりして、そういえば私も国語の成績は良いか悪いか極端だったな、というのを思い出しました。
例えば、平均点70点のテストがあったとすると、80点を取るか60点を取るかみたいに安定していなかったです。特に高校生のときはそうでした。

元々私は小さい頃から本を読んでいる方でした。
当時の娯楽と言えば、外で走り回るか家の中で絵を書いたり読書をするくらい。
インドア派で絵も得意ではないとなると、やることと言えば読書一択。
日本昔話とか世界偉人伝など1冊5分もあれば読み終わる薄い本が200冊くらい家にあって、同じ本を数百回読み込んだり、寝る前に5冊くらい選んで両親に読み聞かせをしてもらったりしていました。
それで小学校2年生で「あさりちゃん」の漫画に出合ってマンガを読むようになって、そこからは漫画と図書館の本と同時並行でいろいろ読んでいました。

そうして中学生になって歴史を学ぶようになると、有名な文学作品とその作者を覚えさせる問題が出てくるので、実際その本を読んでみようかという流れになりました。
それで読んでみたのが「ライ麦畑でつかまえて」「蟹工船」「星の王子様」「銀河鉄道の夜」「羅生門」と、この辺り。
これが本っっっ当に意味が分からなくて、なぜこれが名作なの?、という状態に陥りました。
読み終わってみても、だからなんだ、としか思えなかったのです。
作者の自伝的な内容である「しろばんば」「あすなろ物語」、ちょっと悲しい初恋物語の「野菊の墓」、詩集の「智恵子抄」はわりとわかりやすくて楽しめていたのですが、読めたのは本当にこれくらいで他の作品はダメでした。

その理由がわかったのは高校生になってから。
国語の授業で「羅生門」を勉強する機会があって、この場面ではこういう意味があるとかを授業でキッチリ教えてもらって、文学作品はこう読むものなのだというのはわかりました。
でも、だからといって他の文学作品を読めるようになったかというとそんなこともなく、高校の図書室では富士見ファンタジア系とか推理小説とかを読み漁りました。
内容はやっぱりわかりやすく結末がはっきりしていて謎を残さないまま終わるのがいい、という結論に達しました。
文学作品は現代作ならいけるかもと、「深い河」なども読んでみたりしましたが、ダメでした。何でそこで終わるかなぁ、となってしまい、どうしてそこで終わるのかとかを考えられなかったのです。
読んで感じ取れと言われても何も感じ取れないけれど、こういうことを感じ取るものなのだと言われるとわかる、という感じだったので、初見の文学作品はまともに読めなかったです。
自分で考えるよりも、答えを提示してくれたら納得できるからその方がいい、という感じでしょうか。
国語の試験も、内容に共感できるものだったら成績もいいし、出来ないものだと成績も落ちるという感じになりました。

それで約10年前「ノルウェイの森」が映画化されたとき、テレビの特集で原作について語り合おう、みたいな番組があって、そこに光浦靖子さんが出演していて、この場面はこうだったとかいろいろ話しているのをたまたま見かけました。
それを見て、あぁ光浦靖子さんは文学を読める人なんだな、と感じました。
結局この辺りも遺伝というか生まれつきのものがあって、私の場合は数学の問題だとかは問題を読めば解き方なんてわかるじゃんという感じで解けない人の気持ちがわからないけど、文学を読める人からするときっと私などは何で読んでわからないのかと思われているいう感じなのかな、と。
どちらもできる人はいるのでしょうが、私には文学を読む才能はなかったのだろうな、と感じました。
小さい頃からある程度数でカバーしていたからわかりやすい本は読めるけど、それ以上となると無理で、読んだことはないものの哲学の本とかはもっと読めないのだろうな、と思います。

それがそのまま現在まで続いていますが、昔読んだ文学作品をネットで検索すると、この作品はこう読めばいいという考察ページが割と出てくるので、それを読んで初めて理解できたという作品は増えました。
特に「源氏物語」は「あさきゆめみし」で内容こそ知っているものの、何でそこはそうなるのかなぁ、とかわからないことが結構あったのですが、考察を読んで納得したことが多かったです。
例えば、終盤で源氏が女三宮を正室に迎えたら紫の上が病んでいく過程。初めて読んだときはなぜ紫の上が病んでいくのか全く分かりませんでした。源氏に頼まれて明石中宮を育て上げたりしているのに、若い子が源氏の正室になっただけで今更病むの?、と。
それがいろいろ考察を読んでみると、紫の上は源氏に理想の女性として育てられたから、源氏に嫉妬心を見せるようなこともしないし、かといって女三宮を悪く言う源氏に同調したりもしないけど、源氏しか拠り所がないのに源氏の正室の座を持っていかれたから心が保てなくなっていく、とあり。言われたらなるほどなぁ、と思うわけで、それでいろいろ検索をかけたりもしていました。

結局、私は今でも考察なしでいきなり文学作品を読み解くことはできないのですが、高校のときの国語の先生は元々バリバリ理系だったのが途中で文学に覚醒して学び直したという話をしていました。
大学は理系の心理学を専攻していたもののそこまで興味があったわけでもなく、いろんな授業をモグリで受けていたら、とある文学の授業で「この作品で牡丹が落ちるという描写には意味がある。」というのを聞いて、文学を学びたいと思ったと言っていました。散々迷った挙句転科試験を受けずに文学部の大学院に行って教員免許を取って高校の国語教員になった、と。
人生どこでルート分岐するかわからないものだなぁ、と思ったものです。
私もそういう出合いがあったら違う人生もあったのかなぁ……と思いつつ、結局今でも文学が読めないので覚醒はしなかったのだろうな、とも思います。

現在だと、何かの作品を1回読む、考察を読む、もう1度読み直す、という過程を経て文学作品はちょっとだけ読めるようになった気がしています。
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:コミック

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。